2012年4月15日 (日)

芸術の真の力が

 近江楽堂での「弦楽トリオ(1949)」にひきつづいて、去る8日、谷中のスイス風ログハウスの店シャレースイスミニにおいて、清瀬保二のもうひとつの作品「弦楽カルテット(1951)」がすばらしい演奏に恵まれた。
 演奏は、斎藤千種、福崎雄也、山下進三、松本ゆり子の諸氏。名称、新東京アマデウスカルテットは、院内コンサートなど大ホールではない、演奏するものと人びととがじかに接する場での演奏をつづけておられる。
 この日、ほぼスペースいっぱいの50名ほどが、おそらく始めて接したであろう清瀬保二の音楽の力強い訴求力に、ほとんどショックといっても良いほどの感動にふるえた。
 いまそれをことばで代弁することは非常にむずかしいが、いずれも1950年前後、つまり敗戦後の生活の困難さが誰にとっても無縁ではなかった時代に、作曲家が人々に未来への希望をよびかけずにはいられなかった。そういう、作品にこめたまさに創造の核心が、独特のリズム感と速度感で力強く表現された。それは私にとって、これまでに経験したことのないものであった。
 私たちは昨年3月の東日本大震災と原発事故以来、その衝撃にいまもじわじわと心も体もゆさぶられつづけている。
 清瀬保二がこれら二作品を生んだ60年前のあの激動の時代と、ある意味重なるものを演奏者も、聴き手も、ともに感じ合わずにいられないということ。
 それはバブルに浮かれた時代には決して生まれえなかった必然なのではないか。芸術の真実が生まれる土台が、いま私たちのここにはある、ということなのではないだろうか。
                                         小宮多美江

| | コメント (0)

2012年2月14日 (火)

戦没作曲家の音楽よみがえる

七十年の時を経て、戦没作曲家の音楽よみがえる

 昨年11月の無言館コンサートの前夜から、ふたたび幻の紺野陽吉を追い始めて3ヶ月、短いがたいへん充実した時間であった。
 入隊を前に忽然と清瀬保二宅に現れ、言葉少なに置いていった紺野の三曲は「木管三重奏曲」「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」「弦楽三重奏曲」。唯一日付のある「木管三重奏曲」によれば、昭和十七年三月、2602年、つまり70年の時を経てそれらがいま(デジタル音ながら)生きた音楽としてよみがえったのである。
 眠っていたそれら自筆譜を浄書譜におこし、未完に終っていた楽章のさいごをおぎない、十分味わうことができるまでにしてくれたのは清瀬保二の弟子、安藤久義である。
 なぜ安藤久義かといえば、紺野陽吉の姪御さんの住んでおられるのが、たまたま横浜市南区ということからひらめいたのだが、電話の向こうで返されたのは、「それは佐藤敏直だろう、紺野陽吉が山形の人なら」だった。それが叶うことなら、私だって。
 年を越えて2月3日、同席した岡田京子によれば、「何か身近に起こった素敵なドラマを見たようないい日」たった。
 「幻の作曲家・紺野陽吉の3作品をMIDIデータ化したものを、東京から3人の専門家を招いて、私の仕事部屋で試聴の儀を行った。60数年前に没し、演奏された事のないこれらの作品、たとえデジタル音にしても、打ち込み作業に従事していた私以外の人が耳にするのは(私的公開ではあるが)始めての事であり、若干誇張して云えば、歴史的な瞬間だったのである。」
                (安藤久義ジオログより)

 いずれパート譜も用意されるが、その前に、なぜ、紺野陽吉が清瀬保二のところに現れたのか、これまでに私が推理していたことから書いてみよう。
 音楽の世界社新刊楽譜のひとつ、清瀬保二の「木管三重奏曲」の初演および放送がされたのは1938年12月。紺野陽吉は前年から服部正指揮のコンセール・ポピュレールの第二ヴァイオリンの席にいた。フルート、クラリネット、ファゴットという比較的めずらしい編成ながら、清瀬保二の曲を面白くきいた紺野陽吉は、だから、まったく同じ編成でこの「木管三重奏曲」を書いてみたのではないか。
 さて、紺野の3曲をきくうちに、そんな姑息な推理も吹き飛んでしまうのを私は感じた。
 いずれも情緒ゆたかな第二楽章をはさんでの3楽章仕立てだが、どの楽章にも生き生きと楽しげなリズムが、ごく自然に流れ、まさに作者のアイデンティティーをあますところなくあらわしている。なるほど、ほかならぬ清瀬保二に預けようとした理由がひしひしと感じられ、ききながら隣の席の岡田京子といくたびか膝をたたきあうほどであった。
 おわりにもう一言いえば、「尾崎宗吉作品集成」CD評に、もし尾崎が生きていれば戦後の歴史が変わっていたかも、という言葉があったが、紺野陽吉にもまったく同じことがいえる気が私はしている。

| | コメント (0)

2012年1月 3日 (火)

東京農業大学管弦楽団と尾崎宗吉

 尾崎宗吉については、やり終えた感もあるのだが、CDに書き落とされたものに、ある大学管弦楽団の定期演奏会の曲目に尾崎宗吉編曲の数曲があった事実がある。出版譜の方には記録してあるが、詳報を得たので記録しておく。
 というのも、もう一人の戦死者紺野陽吉は、服部正率いるコンセール・ポピュレール(後に青年交響楽団と名乗ることになる)の第2ヴァイオリンの席にいた、これが今わかっているごくごくわずかな経歴だからでもある。
 さて、ある大学とは、東京農業大学管弦楽団のことである。
 記録によれば、1928年に音楽部として発足し、第1回演奏会を1932年2月21日にひらいていが、のち、新響(現N響)の加藤為三郎を迎え、1938年10月24日には、第10回定期演奏会を日本青年館で開いている。
 そのときの曲目に、尾崎宗吉編曲によるヘンデルのサラバンドとハイドンのロンドが入っているのである。
 それは同大が青山にあった時代だが、戦中戦後の短い中断はあったにせよ、東京農業大学管弦楽団は現在、大いにさかんな活動をつづけているようである。
 自分たちの団史のなかにこのような事実があること、多くの聴衆にもなんらかの形で伝えられることを祈りたい。

| | コメント (0)

2012年1月 2日 (月)

初夢の代わりに、

初夢の代わりに、CD『尾崎宗吉作品集成』をききながら2012年を迎えた。
ほとんど遺書のような「夜の歌」を井上頼豊リサイタルで知ったのが1977年のことだから、35年でここまでたどり着いたことになる。長いようで私には短い。

松の内のあいだに、清里にこられるという木下忠司さんに、CDを届けると約束した。
氏は、おそらく生前の尾崎宗吉を知る、ただ一人の人にちがいないのだから。

女性と音楽研究フォーラムの辻浩美さんの『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』が教育史料出版会から出版された。2010年12月の「吉田隆子生誕100年記念コンサート」のCDつきである。

昨年5月31日、久保マサさんが亡くなって、マサさんから全面的に託された、ゆうに半世紀を越える吉田隆子研究のさいごの仕上げを、残り少ない生のあいだにやりとけなければ、とあらためて思っている次第。 小宮多美江

| | コメント (0)

2011年11月22日 (火)

無言館スペシャル・コンサート「夜の歌」以後

 その前夜、紺野陽吉の再考の機会が訪れたことは前回、書いた。
 きっかけはミッテンヴァルトの弦楽トリオへのアプローチなのだが、自分のコラムを読み返せば、紺野の残した曲にはほかに木管トリオがある。
 清瀬保二の木管トリオが初演、そして放送されたのは1938年暮れのことだから、数年はたっているが、しかし、木管トリオという編成にあえて取り組んだについては、紺野陽吉自身の青年交響楽団においての経験とも合わせてなにかその楽器編成に惹かれるものがあったのではないだろうか。
 ふとこの、テーブルの下の棚に「辻井富造伝」(『パイパーズ』1997年12月~1998年3月号)の写しがあるのを思い出して、讀んでみた。
 文 平井常哉の要点は、一見極めて盛んなク日本のラリネット界にあって、「自分の歴史的役割は何なのか」という自覚を持っているものがいなさすぎるのではないか、そう思うゆえに、新響初代主席クラリネット奏者辻井の生涯をたどってみたとのことである。
 クリティーク80はその第4回コンサートで清瀬保二の木管トリオをとりあげた。そのとき、作曲家の自筆譜に書いてあった初演者の名に、辻井富蔵とあって、思わず池田逸子と一緒に作曲家のうっかりミスと思ってしまったのであったが、今回伝記を讀んで見ると、そもそも本名が富蔵なのであった。つまり清瀬保二のうっかりでもなんでもなかったのであった。
 1901年大阪生まれの辻井の最初の音楽体験は三越少年音楽隊への入隊であったが、のち1930年、雨潤会(別記)の奨学金を得て、ベルリンに留学、ベルリンフィルのエルンスト・フィッシャーに師事している。が、それよりも前にバンドでの活動があり、そして新響入団がある。室内楽活動としては、モーツアルト、ブラームス、いずれの五重奏曲もその日本初演をになっているが、オーケストラの中にあって、辻井のクラリネットがどれほどの重要な存在であったか、それは、伝記中に寄せられた松本善三氏の文から読みとろう。
 「1935年12月4日の新響第161回公演、チャイコフスキーの第5交響曲の演奏にさきだつリハーサルでのこと。第2楽章中間部モデラート・コン・アニマの、A管で吹くわずか4小節ながら東洋的な優艶な旋律を辻井さんが吹くと、モギレフスキーが指揮の手を止めて、「あんまり美しいからもう一度吹いてくれ」とその部分をもう一度吹かせた」というのである。
 辻井のクラリネットの魅力が清瀬保二に「木管トリオ」を書かせたきっかけのひとつと考えていいのではないか、といま思う。パート譜作成の段階を思い出しても、事実納得するものがある。
 若い奏者たちに呼びかけたい。木管トリオの、アンサンブルの楽しさを、自分たちもそして聴いてくれる人たちも一緒に味わってほしい。
 紺野陽吉のことも、乗り出した船、もう少し進めて行こう。

 CD「尾崎宗吉作品集成 夜の歌」は『毎日』にも載り、好評を得ている。いま望み得る最高のものなのだから、当然といえば当然。店を尋ねなくとも手に入れられるようになっているのは幸いだ。     
 

| | コメント (0)

2011年11月12日 (土)

紺野陽吉の音楽を

 これから、無言館でのスペシャル・コンサートへでかけるところ。
 その前に、もう一人の戦没作曲家についてメモしておきたい。
 私が、しんぶん赤旗コラムに「紺野陽吉を知りませんか」と呼びかけたのは1995年8月のことだった。
 いま私の手元には紺野陽吉の「弦楽三重奏曲」の楽譜がある。
 それは、日本の作品を積極的に演奏して行こうという「菖蒲弦楽三重奏團」のために用意された浄書だが、旋律もリズムも民俗的なルーツを素直に生かした作品だ。
 コラムを読み返してみると、清瀬保二文庫(日本近代音楽館所蔵)中の「紺野陽吉君遺稿」のなかにあったのは、木管三重奏曲、ヴァイオリンとチェロの二重奏曲、そして弦楽トリオが二曲、とある。
 コラムの先を続ける。
「ある日、見知らぬ青年が砧の清瀬保二の家を訪れ、自分は明日入隊するのでこれを預かってほしいといって楽譜を差し出した。敗戦後、清瀬保二は青年の再来を待ち続けた。ついには戦死したと考えるほかなくなるまで。」
 さて、ちょうどそのころ、無言館のことがNHKで放映された。
 当然のように画学生ばかりではない、音楽にもきっと無念の思いを抱いたまま命を絶たれたものがいたにちがいない、ということになり、放置されたままのこの分野の状況を打開しようという動きがあらわれた。
 それからまた十数年をへて、昨夜、私は紺野陽吉の遺族のひとりで、姪にあたる方が横浜に健在との知らせを受けた。ほぼ私自身と同じ年齢のようだ。そして、叔父の作品をぜひききたい、と切に願っておられるという。
 無言館から帰ったら、こんどこそ、もう一人の戦没作曲家ののこした楽譜を生きた音楽にして、みんなに聴いてもらおうと思う。

| | コメント (0)

2011年11月 4日 (金)

現代邦楽を考える

 しんぶん赤旗の読者はすでにお読みくださったと思いますが、ここ数年頭にあった現代邦楽のことを書きました。書いてからなお残された課題に気がついています。
 若い研究者にぜひ取り組んでほしいテーマのいくつかを書いておきます。
 洋楽文化史研究会でたまたま、通信教育の面からみた大日本家庭音楽会の研究があったのですが、邦楽の普及に五線譜化があったとは単純には言えそうもないようです。依然として縦譜が活用されている、それも一種類ではなく、、、。
 長廣比登志氏の現代邦楽放送年表は時代がちょうど「八重奏曲」が書かれ、日本音楽集団が発足する年から1972年にかけての8年間の記録です。今回まったく触れられませんでしたが、十分考察されるべき記録です。
 育成会についても同じですが、(文中宮田氏を一期生としたのは誤り、第八期生とのこと、失礼しました。)育成会には佐藤敏直も講師?として携わったとのこと。また結果的にかれの最後の仕事となった東京芸大での邦楽器合奏教育のこと、これは資料の提供申し出も受けているといころです。
Img002_2

| | コメント (0)

2011年5月 7日 (土)

音楽のジャンルについても

小村公次さま
  いま私は清瀬保二の「木管トリオ」の出版準備中です。
 この曲は初演直後、30分番組「現代日本の音楽」で放送されたのですが、そのときの新聞記事「東京朝日」(1938年12月28日)を見てみました。見出しに「室内楽二曲 新人作曲家の作曲発表」とあって、作曲家の言葉が載っています。
 尾崎宗吉は、技術と内容の問題になやんでいること、内容の質の変化に伴って表現の方法も亦考えられなければならなかったことを強調しています。詳しくは『尾崎宗吉』を参照していただくとして、清瀬保二の方は、記事をそのまま紹介しましょう。
 「自分はこのトリオで木管のもつ軽快、憂愁、柔らかい感触というようなものを描いてみたかった。三つの楽章に分かれている。第1楽章は、アレグロでソナタ形式。軽快な第1テーマとやや憂愁な第2テーマとの対比をなし、教会旋法を主にし、第2楽章はレントセンプリチエで二部形式。第1テーマは純然たる5音音階、第2テーマはややクロマティックに変形された5音音階。素朴な田園的郷愁を画き第3楽章は五つのテーマよりなるロンド形式、しかし各テーマはある一貫した姿をもつチゴイネル音階を主にしている。(後略)」と。
 清瀬が室内楽作曲への取り組みをこんなに具体的に披瀝しているのは珍しいように思いますが、当時の読者、聴き手にどのように受け止められたでしょうか。ラジオのこの番組は林芙美子ら文学の人がよく聴いていたようですが。
 それはともかく、同日の別の面を繰って驚きました。
 楽譜が二つも載っているのです。
 ひとつは歌手だった林伊佐緒がキングレコードの懸賞をしとめた『出征兵士を送る歌』ー「わが大君に召されたる」であり、もうひとつは「肩を並べて兄さんと」と明るく歌いだす『兵隊さんよありがとう』です。晋平童謡がいつのまにかこういう歌にすりかわっていたのですね。
 「効用音楽」と一見かけはなれた作品を、当時の尾崎宗吉、清瀬保二らは一生懸命書いていた。そういうかれらの創作姿勢に時代社会の動きが決して無縁ではなかったことを、私は、尾崎宗吉のことばから読み取ります。
 かれら日本の近代作曲家たちの曲が、いま、時代を真剣に生きる演奏家によって表現され、どのような音楽として私たちのこころにひびくか。あのような時代だからこそ真剣に表現しようとしたかれらの音楽を、胸をはって現代に生かしたいですね。
 ちかごろ純音楽ということばは流行らなくなっているようですが、音楽のジャンルについて一度論じてみることも、必要なのではないかといましきりに思っています。(5月7日)小宮多美江
 

| | コメント (0)

2011年2月 8日 (火)

始まるか雅楽の新しい歴史

「日本の管弦楽」としての魅力をきく

 毎年暮れに聴く伶楽舎の演奏会、楽器別に行われてきた特集テーマが 今回は「打ちもの」つまり打楽器だった。「こと」の特集のとき、長い 歴史のなかで、多様な奏法がいつか忘れられて文字にしか残っていない 事実に驚かされたが、今回も楽器そのものにかなりの栄枯盛衰があるら しいとわかった。
 曲目第一部はよく知られた舞楽の「青海波」、次に廃絶曲になってい た曲を芝裕靖が復活させたという「曹娘褌脱」、そして第二部には猿谷 紀郎に作曲委嘱した新曲「綸綬」が置かれた。曲ごとに楽器を示しなが ら宮丸直子が説明してくれるのもありがたい。
 猿谷への委嘱にあたっては、打ちものに焦点をという注文をつけたと のこと。編成は「青海波」と同じく、太鼓はまず両手に桴をもって打つ 鞨鼓をはじめ、太鼓、鉦鼓、笛は笙、篳篥(ひちりき)竜笛の各三種ず つ、それに琵琶と箏が加わった十六名の基本的な編成だが、打楽器に は、二曲目の芝の復曲「曹娘褌脱」のさいに作られたという鐘鼓のほ か、まったく新しい楽器としてサヌカイトが加えられ、それらを何人か が持ち替えて演奏した。
 「綸綬」という曲名は、作曲者が伊勢神宮神嘗祭の夜の神楽で受けた 印象を美しい御簾の飾りに託して名付けたとのことだが、雅楽といえば 楽器の美しさも大きな要素であることもあらためて認識された。
 打ちもの特集なのだからあえて付け加えれば舞台の中央に位置する大 太鼓(だだいこ)は美しさの象徴のように目立ち、後ろに控える笛をは じめさまざまな楽器にはさまたげになるほどの大きさと位置だ。しかし それも洋楽オーケストラにおける指揮者の役を担っていると思えば納得 がゆくではないか。
 雅楽の合奏は管弦といっても擦弦楽器のヴァイオリン属が主体になっ て発達してきた洋楽オーケストラとはちがって主役はむしろ笛と太鼓。 琵琶や箏が加わってもそれはもともと旋律をかなでるわけではない。全 体が微妙にゆらぐ音の集成で、それを私たちは独特の味わいとして心地 よく聴く。
 打ちものそれぞれもそうなのだが、今回はまったくあらたな楽器とし て加わったサヌカイトのなんともすがすがしい音が伝統楽器のお株をう ばいかねない様子さえうかがえた。旋律が歌われなくても微妙の音のゆ らぎや音色全体のひびきにいくらでも魅力を感じるのである。
 「綸綬」はまだ生まれたばかりの曲である。今後、演奏を重ねること によって、さらに多くの人をひきつけるようになるにちがいない。大き くいえば、なにか新しい雅楽の歴史が始まるかのような気さえしたもの である。
    (サヌカイトは讃岐地方で採取される固く緻密な石。東京文化会館小 ホールのロビーにある。
 伶楽舎雅楽コンサートNo.23 は2010.12. 22 四谷区民 ホールにて)

 この一文は、去る1月24日付け「しんぶん赤旗」に掲載のものだが、このHPではちょうど一年前にも雅楽についていくつかの文を載せているので、その続きとしても讀んでもらえるかと思い、再録した。

 そこですでに書いているようにサヌカイトを楽器として使った曲には長澤勝俊の「朱輪金鈴」がある。それは1971年のこと。それはサヌカイトを楽器として使ったほとんど最初の試みのようで、そのときの苦労のさまは『長澤音楽のすべて』(日本音楽集団発行)に詳しい。
 今回伶楽舎が「綸綬」のために使ったのは、プログラムによれば讃岐在住の宮脇磬子氏から借りたものであるという。サヌカイトが特殊な岩石として命名されたのはずいぶん古いことだが、長くベル替わりに鳴らされていただけであり、楽器として定着するにはまだもう少し時間がかかるかもしれない。
 ともあれ、現代邦楽のなかに入った楽器サヌカイトが、40年の後に雅楽の楽器のなかに入ったというわけで、伝統とその継承発展の歴史は文字通り息の長いスパンで見なければ到底見通すことはできない問題なのだと教えられる。

 2011年2月                       小宮多美江


 

| | コメント (0)

2010年12月 1日 (水)

重要な創作期だった戦中戦後ーー吉田隆子生誕100年記念コンサートを前に

 去る10月5日の渡部玲子ヴァイオリン・リサイタルで吉田隆子の「ソナタ」のいい演奏をきいてから、ここ八ヶ岳南麓の山の家にきた。9月にはまだ蕾みだったリンドウの花の紫が草原いっぱいにひろがっている。この春、大きくなりすぎた樹木を伐採したので、きっといろいろな草花が出てくるだろうと期待していたのだがこれほどまでに咲くとは!
 リンドウはここ数年、少しづつ生えはじめていた。しかし、今年の夏の陽光は、こんなに花芽が増えて大丈夫かと心配したほどで、茎はどれもしっかりと固く茶褐色で、頭頂部には数十の花が固まって咲いている。
 この山の家もそろそろ50年を越えることは切り株の年輪が教えてくれているが、その歳月は私が師吉田隆子を失って以後、社会の動きにつき動かされ、仲間たちに支えられながら、なんとか歩んできた時間とも重なる。
 ペンションなどなかった時代、よくわいわいと合宿もしたし、1980年の夏にはここで、世代はちがっても目的を同じくした三人の評論仲間が、新しいグループ名「クリティーク80」と声明文とを一晩かけて練り上げた。
 吉田隆子がそうであるように、昭和10年代から敗戦をはさんで30年代までの数十年は、近代日本の作曲家たちにとって非常に重要な創作期だったのだが、戦後も高度経済成長期に入ると、日本の音楽ジャーナリズムの関心はすっかり外国由来の音楽へ目移りしてしまった。 
 われわれはそこで、あえて陽の当たらなくなったところに光をあて、作曲家と作品の真の価値をひろく知らせようと演奏家の協力も得て事前のシンポジウムもひらき、聴き手もいっしょになってつくりあげるコンサートを開きはじめた。1900年生まれの清瀬保二、1910年生まれの吉田隆子、さらに年下で敗戦の年に中国で戦病死してしまった尾崎宗吉など。
 90年代に入ってからは平尾貴四男、安部幸明を加えて『現代日本の作曲家シリーズ』を5冊、次いで通史『近現代日本の音楽史』、また吉田隆子の未完のオペラ台本の復刻『君死にたもうことなかれ』(新宿書房)を出した。
 それと同時に楽譜出版にもこれまで以上に力をいれるようになった。
 文字通り戦火をくぐって残された作曲家の自筆譜、あるいは初演で好評を得たにもかかわらず出版されてこなかった作品を出しはじめたのである。幸いなことにここ数年は、それらの本や楽譜を手にとって目を(耳を)ひらいた演奏家たちが、いまでは私も知らぬまにどこかしらで演奏してくれるようになっている。
 とくに今年、生誕百年の吉田隆子はすでに各地で、それぞれちがう演奏家によって取り上げられている。これからの催しは別記するが、渡部玲子さんは年来のお客さまの「ぜひ吉田隆子をもう一度」という声に答えて曲目に取り上げたのだそうで、ピアノ伴奏ともどもこれまでになくあたたかい血の通った表現が生まれ、聴き手のゆるぎない感動をよびおこした。
 リンドウがそうであるように陽があたれば草は芽を出し、花を咲かせる。そのとき雨も絶対に欠かせないが、じっと地中にありつづけた根の存在の大きさも思う。私にはちょうどそれが、自分の国の自分の時代の作品を聴くよろこびを長い間待ち続けていた聴き手の存在と重なって見えてならないのである。
     (『女性通信』12月号に掲載の文を再録、小宮多美江) 
 
 
 
 

 
 
 


 
 
 

| | コメント (0)