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2012年2月27日 (月)

生誕百年に向けて演奏してください!!

 紺野陽吉の「弦楽三重奏曲」と「二重奏曲」のスコアおよびパート譜ができました。演奏してみようと思われる方、ご連絡ください。すぐに送ります。

紺野陽吉 
1913(大正2)年5月16日、山形県西置賜郡東根村大字畔藤(現白鷹町畔藤)2778 に生まれ、1945(昭和20)年10月13日、牡丹江(戦死公報による)没。

 生年は、伊福部昭の一つ上、尾崎宗吉の二つ上、没年月日をみれば敗戦の日から2ヶ月後である。どのような死であったのか、白木の箱には名前の記された紙片以外なにひとつ入っていなかったとのこと。なんとも口惜しいが、今は音楽をよみがえらせることの方へ向かおう。
 紺野陽吉の曲にはだれもが親しみをおぼえずにはいられない、その根源は、地図を見、地形を想像し、そこにあったであろう暮らしまで思いめぐらせればすぐわかる。
 現在の町名白鷹は、千メートル弱の白鷹山が北東に位置するゆえにちがいないが、町のそばを流れるのは最上川。山形県を貫通し、長さも日本有数の、そしてかの「最上川舟歌」を生んだ川である。紺野の旋律のゆたかさの源はこれだったかと納得されよう。父は、浅立から紺野家に婿入りしたというが、それから学費を得て慈恵医大を卒業、村一番の医者として生きた。祭りともなれば獅子舞が紺野家をめがけて集まったことだろう。
 紺野陽吉の音楽はどんな音楽なのですか?という問いに対する答えはこれだけで十分ではないだろうか。
 ただそれが歌ではなく、弦楽器による三楽章、十数分の室内楽なのである。

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2012年2月14日 (火)

追伸

追伸:
 安藤久義、岡田京子はともに、耕人会のメンバー。耕人会は1960年から70年代にかけて10回の作品発表会を行った。創立メンバーのうち佐藤敏直、星野健が逝った。

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戦没作曲家の音楽よみがえる

七十年の時を経て、戦没作曲家の音楽よみがえる

 昨年11月の無言館コンサートの前夜から、ふたたび幻の紺野陽吉を追い始めて3ヶ月、短いがたいへん充実した時間であった。
 入隊を前に忽然と清瀬保二宅に現れ、言葉少なに置いていった紺野の三曲は「木管三重奏曲」「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」「弦楽三重奏曲」。唯一日付のある「木管三重奏曲」によれば、昭和十七年三月、2602年、つまり70年の時を経てそれらがいま(デジタル音ながら)生きた音楽としてよみがえったのである。
 眠っていたそれら自筆譜を浄書譜におこし、未完に終っていた楽章のさいごをおぎない、十分味わうことができるまでにしてくれたのは清瀬保二の弟子、安藤久義である。
 なぜ安藤久義かといえば、紺野陽吉の姪御さんの住んでおられるのが、たまたま横浜市南区ということからひらめいたのだが、電話の向こうで返されたのは、「それは佐藤敏直だろう、紺野陽吉が山形の人なら」だった。それが叶うことなら、私だって。
 年を越えて2月3日、同席した岡田京子によれば、「何か身近に起こった素敵なドラマを見たようないい日」たった。
 「幻の作曲家・紺野陽吉の3作品をMIDIデータ化したものを、東京から3人の専門家を招いて、私の仕事部屋で試聴の儀を行った。60数年前に没し、演奏された事のないこれらの作品、たとえデジタル音にしても、打ち込み作業に従事していた私以外の人が耳にするのは(私的公開ではあるが)始めての事であり、若干誇張して云えば、歴史的な瞬間だったのである。」
                (安藤久義ジオログより)

 いずれパート譜も用意されるが、その前に、なぜ、紺野陽吉が清瀬保二のところに現れたのか、これまでに私が推理していたことから書いてみよう。
 音楽の世界社新刊楽譜のひとつ、清瀬保二の「木管三重奏曲」の初演および放送がされたのは1938年12月。紺野陽吉は前年から服部正指揮のコンセール・ポピュレールの第二ヴァイオリンの席にいた。フルート、クラリネット、ファゴットという比較的めずらしい編成ながら、清瀬保二の曲を面白くきいた紺野陽吉は、だから、まったく同じ編成でこの「木管三重奏曲」を書いてみたのではないか。
 さて、紺野の3曲をきくうちに、そんな姑息な推理も吹き飛んでしまうのを私は感じた。
 いずれも情緒ゆたかな第二楽章をはさんでの3楽章仕立てだが、どの楽章にも生き生きと楽しげなリズムが、ごく自然に流れ、まさに作者のアイデンティティーをあますところなくあらわしている。なるほど、ほかならぬ清瀬保二に預けようとした理由がひしひしと感じられ、ききながら隣の席の岡田京子といくたびか膝をたたきあうほどであった。
 おわりにもう一言いえば、「尾崎宗吉作品集成」CD評に、もし尾崎が生きていれば戦後の歴史が変わっていたかも、という言葉があったが、紺野陽吉にもまったく同じことがいえる気が私はしている。

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