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2011年11月22日 (火)

無言館スペシャル・コンサート「夜の歌」以後

 その前夜、紺野陽吉の再考の機会が訪れたことは前回、書いた。
 きっかけはミッテンヴァルトの弦楽トリオへのアプローチなのだが、自分のコラムを読み返せば、紺野の残した曲にはほかに木管トリオがある。
 清瀬保二の木管トリオが初演、そして放送されたのは1938年暮れのことだから、数年はたっているが、しかし、木管トリオという編成にあえて取り組んだについては、紺野陽吉自身の青年交響楽団においての経験とも合わせてなにかその楽器編成に惹かれるものがあったのではないだろうか。
 ふとこの、テーブルの下の棚に「辻井富造伝」(『パイパーズ』1997年12月~1998年3月号)の写しがあるのを思い出して、讀んでみた。
 文 平井常哉の要点は、一見極めて盛んなク日本のラリネット界にあって、「自分の歴史的役割は何なのか」という自覚を持っているものがいなさすぎるのではないか、そう思うゆえに、新響初代主席クラリネット奏者辻井の生涯をたどってみたとのことである。
 クリティーク80はその第4回コンサートで清瀬保二の木管トリオをとりあげた。そのとき、作曲家の自筆譜に書いてあった初演者の名に、辻井富蔵とあって、思わず池田逸子と一緒に作曲家のうっかりミスと思ってしまったのであったが、今回伝記を讀んで見ると、そもそも本名が富蔵なのであった。つまり清瀬保二のうっかりでもなんでもなかったのであった。
 1901年大阪生まれの辻井の最初の音楽体験は三越少年音楽隊への入隊であったが、のち1930年、雨潤会(別記)の奨学金を得て、ベルリンに留学、ベルリンフィルのエルンスト・フィッシャーに師事している。が、それよりも前にバンドでの活動があり、そして新響入団がある。室内楽活動としては、モーツアルト、ブラームス、いずれの五重奏曲もその日本初演をになっているが、オーケストラの中にあって、辻井のクラリネットがどれほどの重要な存在であったか、それは、伝記中に寄せられた松本善三氏の文から読みとろう。
 「1935年12月4日の新響第161回公演、チャイコフスキーの第5交響曲の演奏にさきだつリハーサルでのこと。第2楽章中間部モデラート・コン・アニマの、A管で吹くわずか4小節ながら東洋的な優艶な旋律を辻井さんが吹くと、モギレフスキーが指揮の手を止めて、「あんまり美しいからもう一度吹いてくれ」とその部分をもう一度吹かせた」というのである。
 辻井のクラリネットの魅力が清瀬保二に「木管トリオ」を書かせたきっかけのひとつと考えていいのではないか、といま思う。パート譜作成の段階を思い出しても、事実納得するものがある。
 若い奏者たちに呼びかけたい。木管トリオの、アンサンブルの楽しさを、自分たちもそして聴いてくれる人たちも一緒に味わってほしい。
 紺野陽吉のことも、乗り出した船、もう少し進めて行こう。

 CD「尾崎宗吉作品集成 夜の歌」は『毎日』にも載り、好評を得ている。いま望み得る最高のものなのだから、当然といえば当然。店を尋ねなくとも手に入れられるようになっているのは幸いだ。     
 

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