渡部玲子演奏会は、お客様それぞれの胸に、大きな感動を沸き起こして終わりました。
来年もまた、同じ会場で、同じような、あつい演奏会がひらかれます。ご期待ください。
会場では書籍『吉田隆子』が多くのみなさんの手に届けられました。
合わせてCD『花岡千春 清瀬保二ピアノ独奏曲全集』も紹介しましたが、やはりまだまだ、ききたいと思っておられる方々のところに、届いていないということがわかりました。
音楽の世界社のいつもの方法でお届けできますので、ご一報ください。
ちなみに、私の解説文をここに紹介いたします。
清瀬保二(1900~81)
清瀬保二は20世紀近代日本を代表する作曲家のひとりである。
1900(明治33)年1月13日、宇佐神宮のお膝元、大分県宇佐市四日市町の大地主の次男として生まれた。それは「荒城の月」の作曲者滝廉太郎が外国留学に旅立つ前年。山田耕筰がはじめてベルリンに向かうのは10年後。信時潔が東京音楽学校研究科作曲部修了証書第1号を受けるのはその5年後、外国留学はさらに5年後の1920年のことになる。
清瀬保二は中学入学の年、父を亡くす。多感なそのころのかれを慰めたのは兄が福岡から持ち帰ったヴァイオリンであった。中学を終えれば旧制高校受験。一度で入学を果たすことはできず、上京しての浪人生活のあいだに、日比谷公園野外音楽堂の軍楽隊演奏に出会い、耳新しい半音進行に驚いたりするが、受験生としてはそれ以上ひきつけられるわけにはいかなかった。
1919年9月、新しく開校した松山高校(旧制)に無事入学するが、受験中もずっと手放さすにいたヴァイオリンの楽譜探しがきっかけで、偉大な作曲家ベートーヴェンの音楽との運命的な出会いを経験する。松山の楽器店にあった弦楽四重奏のための「メヌエット」の楽譜は、鳴門市板東の「第9」エピソードと同じくドイツ兵捕虜の置き土産ではないかという、このあたりのことは現代日本の作曲家シリーズ3『清瀬保二』(クリティーク80編著 音楽の世界社)の伝記に書いているが、せっかく入れた高校をさっさと止め、「生涯をかけて作曲家になる」という明確な目的を胸に抱いて上京する。それが、1920年はじめのことである。
そのような一大決心をした清瀬保二に、友人が持たせてくれた二枚の紹介状。それは、田辺尚雄と山田耕筰あてであった。田舎から出てきて突然訪れた青年にたいして田辺は、作曲志望なら山田耕筰のところへ行くが良い、丸善(書店)へ行けばリーマンの『機能和声学』の本があるだろうから、それを勉強するといい、と助言した。
山田耕筰のところにはすでに大中寅二その他数人の弟子がいたが、ピアノにさわったこともない清瀬保二には、和声学教科書どおりのレッスンで、平行5度、平行8度禁止などいわれても、そもそも理論的根拠もわからないし、質問する勇気もなく、さりとて黙ってついていく気にはなれず、断りもせずに止めてしまう。
それでも、作曲への決意がゆらいだというわけではないので、しばらくは東京の音楽界の様子を観察、たとえば山田耕筰リサイタルを聴く。といっても自作品の発表演奏会ではなく外国人の伴奏による山田耕筰独唱会である。そのほかいろいろときいてまわったのち、今度は郷里よりさらに南の指宿へ、病気療養の名目でひっこんでしまう。まもなく、郷里四日市町で女学校教師をしていた大分出身の幸(ゆき)ナヲを呼び寄せて妻とする。作曲家生涯の良き伴侶である。鹿児島での数年を経て、ようやく郷里へ帰ったのが、1924年。
そのころから、再度の上京を考えはじめたようで、1925年、大阪で日露交歓交響管弦楽演奏会を、東京でジル=マルシェクス連続演奏会をきく。その11月、阿佐ヶ谷に居を定め家族ともども上京する。
そこ阿佐ヶ谷には小松耕輔(1884~1966)の家があり、その応接間にはフランスをはじめ外国の音楽情報があふれていた。平五郎、清兄弟もいたし、少し年下の松平頼則(1907~01)とも親しくなる。
ひきこもっていた5年のあいだかれは何をしていたか。オルガン(ピアノをとはいいかねて、その代わり大型)を買ってもらい、大阪三木楽器店から取り寄せたたくさんの輸入楽譜を片っ端から弾いてゆく。それと、毎日ひとつ以上の旋律のデッサンを自分に課した。書かれた五線紙は柳行李からあふれていたが、上京のさいに持参したのは、ごく一部。そのなかのいくつかの曲を小松家に持参、グランドピアノの前にすわり、自演、自唱して講評を乞うたのである。
ほどなく小松家での仲間のほかに演奏会で箕作秋吉とも知り合い、その独特の行動力にひっぱられて、同世代の作曲家のたまごたちは1930年、新興作曲家連盟(現日本現代音楽協会の前身)結成へとつき進んでいく。そこで同志となるのはほぼ1900年代初期生まれ、つまり山田、信時の次ぎの世代ということになる。
そこに到る前の1927年ごろ、清瀬保二の家を訪れたひとりの声楽家がいた。フランスでシャルル・パンゼラに学び、帰国後は大阪にいたバリトンの照井栄三(のち詠三)が東京でリサイタルを開いた直後のことらしいが、盛岡出身のかれは、故郷の歌人石川啄木の短歌に作曲している人がいるときいて、かけつけたのである。十歳も年上の音楽家の訪問に驚きながらも清瀬保二は、作曲してあった啄木の歌曲、「いつとなく」「東海の」「砂山の」などを見せた。
照井は即座にその価値を見抜き、のちに次ぎのように言っている。
清瀬保二の作曲の特長は、音楽表現形式の単純化にあるが、その単純性を保持しつつも、内在的転調と変化と複雑性とを表現しようとしている。
照井はすぐさま清瀬保二の作曲した「いつとなく」をレコードに吹き込み、翌年にはもう、作曲家の故郷大分、佐伯、中津、四日市一円の演奏旅行の計画を告げ、清瀬保二本人を伴奏者としてそれを実現している。
清瀬保二の伴奏ピアニストとしての活動は、小松清の紹介でさらに忙しくなっていくのだが、照井のフランス、スペインなど、また作曲家仲間の文字通り現代的な書法の曲の初演者として、作曲家連盟発足後かなりあとまで続けられた。独学だからこそドイツ音楽に偏ることなく、幅広く西洋音楽に接していたその基礎が、当時ほかのピアニストには得られない演奏能力として評価されたのである。
以後、照井の盛岡はじめ東北、新潟方面への演奏旅行では、曲目にピアノ独奏も加えられるようになった。札幌での演奏会では、まだ中学生だった伊福部昭が、清瀬保二のひくショパンやドビュッシーを客席できいたという話がのちのち伝えられている。
また、照井の関係から詩人前田鐵之助を知り、詩誌『詩洋』に曲も掲載され、『音楽新潮』の仲間にも入ることになって、清瀬保二は、作曲家連盟発足以前にすでに日本の音楽界の一角に、ある位置を占めたのであった。
1930年には、ピアノをヤマハからエラールへと買い替えている(1929年、No.119464、現在、日本近代音楽館に収蔵)。当時の値3000円、普通の家なら三軒は買えたのではないか。時代は飛ぶが、だから、日本経済がまだ戦後から抜けきれない1950年代はじめ、日本代表としてユネスコ国際音楽会議参加出席の使命を帯びて渡航のさいには、エラールを手放して旅行費用にあてたものである。ふたたび書斎に戻った作曲家愛用のそのピアノは、亡くなるその日の朝まで、毎日弾き続けられた。
30年代から40年代にかけて、ピアノ曲が多く集中して作曲されているのは、当然といえば当然であろう。もちろん、次第により若い世代も加わってくる作曲運動の輪の中にいて、歌曲、ピアノ曲以外に、管弦楽、室内楽などのジャンルにも手をつけるようになる。そのような流れをふまえて清瀬保二の創作史を眺めなおしてみると、1936年の「琉球舞踊」が、ひとつ重要な分岐点に位置していることに気づく。
それはちょうど日本の近代の作曲全体が、歌曲中心からいわば本格的な作品へ、はっきりと進展していく時代でもあった。そのことに、音楽ジャーナリズムも気づき始めたからだろうか。当時もっともポピュラーな音楽雑誌だった『音楽世界』誌が珍しく「作曲研究」を特集し、多くの作曲家たちに書かせている。その中の文章「作曲するまで」で清瀬保二は、自分の歩んだ独学のあゆみを次ぎのように語っている。(以下『音楽世界』誌1936年7月号より引用者要約)
独学とは、自分が自分の作品の批評家にならなければならないことであり、当然ながらその道のりは決して急いで歩めるものではない。重要なのは何を描こうとするかであり、つねに反省し、学び、ゆっくりと熟達していくのだ。
作曲し始めたころは毎日、日記を書くようにメロディーを書いて行ったが、それは一つのテーマをいかに流れさすかに注意したのであり、そうして行くうちにそのメロディーのなかからおのずと湧いてくるように、和声を感じることもあった。
以前は、一つの歌曲を作るまでに、詩のアクセントからリズムから注意してぎりぎりまで訂正してほっとしてから、伴奏部が浮かんだことが多かったが、近ごろはほとんど同時に浮かぶのでこれでは苦しまなくなった。
このCDをきいてくださる方には、まず音を、演奏者の再現した音楽そのものに耳をかたむけてくださるようおすすめした上で、作曲者清瀬保二の上記のようなことばから、思い当たる曲を少し例としてあげてみようと思う。たとえば、
1、「ひとつのテーマをいかに流れさすか」の例として、第2ピアノ曲集の最初の曲、アンダンティーノは、わかりやすいかも知れない。
2、「旋律が浮かぶと同時に和声が感じられた曲」の例としては、すでに言及したなかからあげれば啄木歌曲の「いつとなく」がそうであるし、最近、自筆譜から印刷譜(音楽の世界社PR誌『クリティーク80』30号)となったタゴールの詩による歌曲「園丁より」(1929)もあげておく。照井栄三が、最後の来日となったインドの詩聖タゴール歓迎会の席で、伴奏なしで独唱した曲だからである。
清瀬保二の旋律のもうひとつだいじな特徴には、増音程への強い志向がある。それは、啄木の「東海の」にもすでにあらわれているのだが、わかりやすい例には、やはり第2ピアノ曲集のブルレスケや偶感がある。
ところで「琉球舞踊3曲」は、新興作曲家連盟が国際的にも発展し、日本現代作曲家連盟と改称してからの第3回作品発表会(1937年6月)で、再来日中のジル=マルシェクスによって初演されている。そのとき、いきなり楽譜から読み取った演奏者の高い音楽性に作曲者自身が驚嘆している。
よく知られているように、琉球の音楽にたいしては現在にいたるまで非常に多くの日本の作曲家がそれぞれ関心を示し、さまざまなアプローチをしてきているが、清瀬保二の場合のように、音楽のもっとも基本的な本質的な要素のレベルで創造的な鍵をそこで握った例はほかにないのではないか。
アンダンティーノは、松平頼則の指摘によって清瀬保二の「愛好品」のひとつジプシー音階による曲の例とされているが、しずかに鳴りはじめる一本の旋律は、5度または4度の和音にささえられながら、どこまでも同じように流れ続けるかに見えて、いつのまにか高揚し、クロマティックなアルペジオに至り、ミスティカルな余韻をのこして、かすかに消えてゆく。
この旋律と和音、そしてクロマティシズムにいたる経過は、作曲者が生まれてはじめて琉球音階に接して驚き、一晩のうちに琉球舞踊3曲を生んでしまった、その創造的、質的転換のたぐいまれな経験あってこそ生まれたものではないか。
さいごにあらためて思うのは、清瀬保二の独学ゆえの創造の道程には、どうやら、いわゆる習作というものはひとつもなくて、すべての作品が、まさに、ひとりの人間が正直に時代・社会に向き合って生きた、そのすべての時間から生み出されたものにちがいないのだ、と。
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